当然のことながら、カラカスの会合は次回の会議へと持ち越し、審議を続行するということだけ取り決めて、行き詰まったまま終わりました。
第3次海洋法会議はひき続きニューヨークとジュネーブの間を往復しながら、その後も14回以上会議がとり行われたのです。
その作業は時閲ばかりかかる骨折り仕事で、討議の内容を立案するにもまず、「個別交渉記録」を「個別交渉記録改訂版」に、それから「非公式複合交渉記録」を「非公式複合交渉記録改訂版」にしていきました。
それが延々と続き、果てはその討議に参加している者と法律家以外、誰も何が話し合われていようがどうでもよくなってしまっていました。
しかし回を重ねるごとに、少しずつではありましたが、着実に総意がまとまるようになり、1980年、とうとう深海域採鉱の討議は答えを出したのです。
それは、2つの採鉱システムを並行させることで選択肢をもたせ、開発途上国も先進国も、平等に深海への権利が保証されていました。
このやり方が実際に機能するかどうか、というのは誰しもが考えることだが、それはそんなに重大なことではありませんでした。
重要なのは、深海の開発で、このとき初めて全員の意見が一致したことでした。
1974年6月、150か国の海洋法の専門家代表が、今回はベネズエラの首都カラカスに送り込まれました。
前年の12月ニューヨークで、短期間の事務レベル折衝があったものの、実際の交渉はカラカスで行われました。
第3次海洋法会議は、前回の形式にのっとり、会議期間中に合意に達することを前提としました。
しかし数週間後、どの国もが、全体的、あるいは部分的にさえほとんど合意に達するレベルではないことが明らかになったのです。
参加国のいずれもが、海洋法に関する各々の立場を勝手に主張し、再度、信じられないような書類の山が積まれ、そのまま暗礁に乗り上げたかたちとなりました。
この会議に先立って行われたシー・ベッド委員会の討議においてもそうであったように、深海域採鉱の問題は、それまでで最も感情的な論争となりました。
第3世界諸国は、国際的な委託機関を設けることに固執し続け、なかには、その機関自体が直接、その採鉱に携わるべきだという国もありました。
むろん、そうしたことは先進諸国の技術をその機関に分け与えることが前提となるわけで、ほとんどの国は正気のさたではないとはねつけました。