経済的独占域は、すべての生物資源を含むことが定められ漁業の管轄権を拡大しました。
以前からこの問題を提起していたアイスランドのような国々は、これによって自らの努力が報われ、その主張が国際法としてのステイタスを与えられたことになりました。
しかし、経済的独占域は必ずしも、すべての国に対して有益なものである必要はなかったのです。
彼らがしたことは、1967年アーヴィッド・パルドが「人類共有の遺産」と訴えた海を、皆でよってたかって搾取したにすぎなかったのです。
世界の海の3分の1以上の海域が、いまや法律的に沿岸諸国の管轄下におかれることになってしまったのです。
各国が主張し、要求した後に残された海域は、「公海」ということになりました。
ここでだけ、海の自由という伝統的な概念が、少なくとも目に見えるかたちで残っています。
この海域の底域は、他とは異なったステイタスになっていました。
「エリア(特殊域)」と呼ばれ、すべての国の利益を目的として、新たに設立された国際海床機関の管轄下におかれることとなりました。
公式な取り決めとしてその名を知られるようになった「1982年海洋法国際会議」は、海洋の法的地位に重大な変化をもたらしました。
未解決のまま残されていた数々の問題が、ジュネーブ会議でようやく解決されたのです。
たとえば、領海の最大幅は、12マイルと定められました。
大陸棚についてもまた、新たな定義がつくられました。
地質学的な概念でマイナスな点はありましたが、「大陸の縁水域の外端」までが大陸棚の範囲である、と宣言されました。
しかし、問題は大陸の縁水域をどこに定めるかということでした。
この取り決めは、地質岩層の厚さ、海嶺の隆起、大陸の傾斜のいちばん下からの距離など、複雑な定義を含んだものとなりました。
多少、プラスになったのは、この取り決めによって、何か国かは、自国の沿岸からゆうに300マイルを超える線まで領海を設定することが可能となったことです。
海洋法はさらに沿岸についての取り決めをつくりました。
経済的な独占ゾーンです。
岸から200海里(約320キロ)に広げられたこの新しいゾーンによって、沿岸諸国は、多くの新たな権利を獲得することになりました。
たとえば、そのゾーンの海床と海のすべての資源に関する独占権、(海洋科学や海洋汚染の調査管理、船舶の航行の自由さえ妨げなければ)その他すべてのものに関する法的な権限が沿岸諸国に与えられました。
各国はすでに、各々の大陸棚の鉱物資源の管轄を行ってきましたが、新しい経済的独占域においては、その資源が大陸棚上にあろうとなかろうとにかかわらず、200海里の範囲内ならば、各国独自の管理に委ねられることに改められました。
沿岸の大陸棚が狭かった国々は、この改訂によってようやく息がつけるようになったのです。
公式な協定への道を阻むものは、時期をのぞいては無いように見えました。
しかし、数か月後、レーガンが政権をとりました。
アメリカの軍事力増強へ向けて、新しい政府は軍事目的の鉱物資源供給の適正化が、どれほど重要であるかを強調しました。
レーガン政権の見方からすると、海洋法会議でうち出された深海域の規定は、受け入れがたいものであり、そのためアメリカ代表は更送されたのです。
新しい代表団は、深海鉱物資源は、それを採鉱する技術力をもった者のものになる、という以前の立場へまい戻ってしまいました。
この事態を解決するべく開かれた会合でのさまざまな試みにもかかわらず、深海採鉱の問題は白紙に戻ってしまいました。
アメリカがいつ心変わりをしてくれるのか、その兆候もないまま、海洋法会議はとうとうアメリカの合意をとりつけず進行することを決めました。
1982年4月hその協定案が票決に付された時、アメリカと他の3か国だけが反対票を投じました。
棄権した18か国の顔ぶれは、イギリス、ドイツ、日本そして東欧圏の国々でした。
一方、第3世界諸国は圧倒的に賛成しました。
結局、117の国々が、数か月後ジャマイカで行われた署名式で、この国際協定に署名したのです。
なかでもフィジーは、同日にすべての条項を批准することまでしました。
当然のことながら、カラカスの会合は次回の会議へと持ち越し、審議を続行するということだけ取り決めて、行き詰まったまま終わりました。
第3次海洋法会議はひき続きニューヨークとジュネーブの間を往復しながら、その後も14回以上会議がとり行われたのです。
その作業は時閲ばかりかかる骨折り仕事で、討議の内容を立案するにもまず、「個別交渉記録」を「個別交渉記録改訂版」に、それから「非公式複合交渉記録」を「非公式複合交渉記録改訂版」にしていきました。
それが延々と続き、果てはその討議に参加している者と法律家以外、誰も何が話し合われていようがどうでもよくなってしまっていました。
しかし回を重ねるごとに、少しずつではありましたが、着実に総意がまとまるようになり、1980年、とうとう深海域採鉱の討議は答えを出したのです。
それは、2つの採鉱システムを並行させることで選択肢をもたせ、開発途上国も先進国も、平等に深海への権利が保証されていました。
このやり方が実際に機能するかどうか、というのは誰しもが考えることだが、それはそんなに重大なことではありませんでした。
重要なのは、深海の開発で、このとき初めて全員の意見が一致したことでした。
1974年6月、150か国の海洋法の専門家代表が、今回はベネズエラの首都カラカスに送り込まれました。
前年の12月ニューヨークで、短期間の事務レベル折衝があったものの、実際の交渉はカラカスで行われました。
第3次海洋法会議は、前回の形式にのっとり、会議期間中に合意に達することを前提としました。
しかし数週間後、どの国もが、全体的、あるいは部分的にさえほとんど合意に達するレベルではないことが明らかになったのです。
参加国のいずれもが、海洋法に関する各々の立場を勝手に主張し、再度、信じられないような書類の山が積まれ、そのまま暗礁に乗り上げたかたちとなりました。
この会議に先立って行われたシー・ベッド委員会の討議においてもそうであったように、深海域採鉱の問題は、それまでで最も感情的な論争となりました。
第3世界諸国は、国際的な委託機関を設けることに固執し続け、なかには、その機関自体が直接、その採鉱に携わるべきだという国もありました。
むろん、そうしたことは先進諸国の技術をその機関に分け与えることが前提となるわけで、ほとんどの国は正気のさたではないとはねつけました。
全国いたる所にはびこる雑草的大型の多年草です。
茎は直立し、高さ40㎝~1mほどになります。
根茎は太くてかたく、本質化しています。
根生葉は長楕円形で長い柄があり、へりは波をうっています。
6~7月頃に総状花序を出し、淡緑色の小花をたくさんつけます。
■食べる部分
葉の間からのぞいている新芽で、透明なぬめりのある物質で包まれています。
■採り方
ぬめり物質で包まれている部分の新芽だけ、ナイフで切り採ります。
■食べ方
ジュサイと同じように、ゆでて酢昧噌、三杯酢、すいもの種などにします。
■効用
新鮮な根をすりおろし、いんきん、たむしなどの患部に直接ぬると効果があります。
また、大黄の代用として緩下剤として用います。
北海道、本州伊吹山以北の亜高山帯の草原に自生する多年草で、時には大きな群落をつくることもあります。
全体的に粉白を帯び、直立した茎はーmほどになります。
小葉は3枚、例卵形で3裂します。
夏の頃、茎頂に散房状の花序をつくり、花弁のない糸状の目立つ花を密につけます。
その姿がカラマツの葉を思わせることから、この名がつけられました。
■食べる部分
若芽、生長した茎の先端、つぼみ。
■採り方
手で折れるところから摘みます。
■食べ方
あくもくせもなく、なかなか捨てがたい味です。
軽くゆでて、おひたし、あえものなどにし、つぼみは薄い衣で天ぷらにします。
中国東北部あたりから塩漬け品が入っていますが、同じ仲間のマンセンカラマツという変種です。
ヨーロッパ原産で、日本へ帰化してすっかり居つき、原野、畦道、土手などによく見られます。
エンドウを少さくしたような姿をした2年草です。
茎は40~50㎝ほどで、葉のつけ根に紅紫色の小さな蝶形花が数花集まって開きます。
のちに、エンドウマメを小型にしたようなマメができます。
■食べる部分
若芽、マメのさや。
■採り方
繁殖力が旺盛ですから、どんどん手でむしります。
■食べ方
元来が牧草なのでやわらかく、若芽はゆでて、酢のもの、あえものに。
若いさやは油妙め、天ぷら、汁の実などにします。
種子もいって食べるそうです。
■効用
全草を煎じて、むくみに用いるといいます。
子供がさやで笛をつくって遊びます。
北海道から九州の、丘陵や山地の林の中に生える多年草です。
地下に白色長楕円形の鱗茎があり、葉は長楕円形または狭卵形で、質はやわらかく、淡緑色地に薄い紫色の斑紋があります(ないものもある)。
花をつける葉は2枚で、4~5月頃、高さ15㎝ほどの花茎の先に紫紅色の6弁花を下向きに開き、シクラメンのように花弁は外側にそり返ります。
■食べる部分
葉と花。鱗茎の採取はひかえたい。
■採り方
指で摘み採ります。
圏食べ方本来がやわらかいので、さっと湯通しをする程度にゆで、ひたしたもの、各種あえものなど。
生では天ぷら、汁の実、煮ものなど。
保存にはゆがいて、天日乾燥させます。
多量に食べると、軽度の下痢をすることがあります。
■効用
生薬としてカタクリを使いますが、今ではバレイショデンプンが用いられます。
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